LYRIC/RHYME - 2004/05
呑みほしてVIVA CUBA LIBREと叫べばいい
腹が鳴った。
半分の長さで充分だ。腹筋に力を入れ、ゆっくり嘆息した。隣の席の見知らぬ女が鼻をすすりあげる音に、おののきながらそちらを見やった。見知らぬ女はハンカチで目頭をおさえていた。私の胃袋には理解できなかったが、どうやら哀切たるシーンらしい。見知らぬ女ににらみつけられ、私は肩をすくめた。
映画館は満席だった。
カップルが半分に、女のコだけのグループが半分程度。封切りから三週間経った土曜日、映画館のそとには長い長い列ができていた。午後の強い日差しに、私は眉間に皺を寄せた。長い長い列に並び、煙草を喫い、煙草を喫った。持ち歩いていた本はとうに読み終わっていた。そして、ようやく映画館に滑りこんだ。
滑りこんだ映画館で、今、腹を鳴らしている。なにゆえ私はかくなる苦行を身に強いているのか。空腹がテツガクを加速させた。別にあれこれを担保に取られているわけではなかった(ホントだぜ)、にもかかわらず。
私はハタと悟りを開いた。
これは贖罪なのだ、と。
そのころ、私は大学の文芸サークルに所属していた。文章を書き、たがいの文章を批評しあうサークルだった。批評の席で失言し、私はサークルから追い出された。「こんなのハーレクイン・ロマンスじゃねえか」と、丸くなかった私は告げた。
今ならば、 市場が肯定するすべては善であると真顔で言えるだろう。ミッキーマウスであろうが、ハーレクイン・ロマンスであろうが、売れるものが正しいと本気で信じこむことができる。
これが善であると、これが正しいと、眉間に皺を寄せることなしに言えばいい。そうやって資本主義に着地していけば、罪はいつかあがなわれる。たぶん、きっと。
まったく簡単なことではなかった。
なにしろ、監督からして「映画「世界の中心で、愛をさけぶ」で展開される物語は、偶然が結びつける運命のようなものがテーマとなっている。」と言っている(益子昌一『指先の花』)。
いやいや、偶然どころではない。日本語は正しく使おう。偶然ではなく、ご都合主義だ。二時間近くご都合主義をつきつけられたら、腹もすこうというものだ。腹筋に力を入れたところで、胃袋の不平はおさまらなかった。「今すぐ席を立ちなよ。たっぷりチーズの乗っかったピッツァと、ラムとコークにライムを垂らしたやつを流しこもうぜ」その提案はまったく魅力的だった。
しかし、これが贖罪なのだとしたら、私がするべきは、ただひたすら、この映画を消費することだ。私はひとつのやりくちをがんばった。柴咲コウは美人だなあ、長澤まさみは美人だなあ、念仏のように唱えつづけた。
あまりにがんばりすぎたので、スクリーンの美人より一杯の酒、なんて、とるにたりない真実を見いだしてしまいそうになった。
ようやくエンドロールが流れすぎ、転がり出した夜は熱をはらんでいた。「あぁ、感動したなあ」私はつぶやいた。言葉はそらぞらしく空気に溶けていった。うまく着地できたのかどうかは判らなかった。
スーツ野郎はカクテルに名前をつける
私は、ジンベースのカクテルを頼んだ。
かつて同居人だった男が言った。
「ここじゃあ、カクテルに名前をつけられるんだぜ」
ここが六本木界隈をさしているのか、それともこのバァをさしているのか私には良く判らなかった。珍しいことでもないだろう。私が良く行っていた場末のバァでだって、似たような話はごまんとあった。いちばんロマンチックな物語は、クリスマスイヴに出逢ったふたりが、きっかけになった唄の名前をカクテルにつけたという物語だった。
私は曖昧にうなずき、
「なんて名前をつけたんだい?」
元同居人、現ビジネスパーソンは、彼が興した会社の名を告げた。
私は軽く肩をすくめ、取り出した煙草に火をつけた。
南からの風が吹く古の都で出会うために
いきつけの美容室は、第三月火が休みだった。早急に美容室に行かなければならない理由が私にはあった。通りすがり、美容室に飛びこみ、カットとカラーをお願いできるか、と訊ねた。応えは諾だった。
よろしい。これでスーツ野郎を偽装できる。
だって、赤い髪に派手な色のシャツなんて、いつもの格好じゃ、どこかのチンピラみたいじゃないか。もちろん、どこかのチンピラじゃないだなんて、口が裂けても言えないけれど。しかし、髪を黒く染め、スーツを着こんで、あいまいな微笑を浮かべれば、私だってスーツ野郎に見えるかもしれないじゃないか。
「どうして、髪を黒くするんですか? 明るいのに飽きたんですか?」
美容師が訊いた。
「うふうむ」
私は鏡に映りこんだ鋏を見つめながら言った。
「明日、京都に行くんですよ」
そして、短くはなく、オチもない話を始めた。
しかし、話すことはいつだって重要なことだ。そうだろう?
スーツ野郎を偽装するために必要なアイテムのひとつ、A4の書類も入るビジネスバッグの肩紐が壊れていることを思い出したのは、黒い髪の自分を鏡のなかに見つけたときだった。完全なる偽装の、なんと難しいことよ。私はひかえめに嘆息した。
カウンターに座った女の薬指に眼をやるな
姐さんはつまらなそうに息をついた。
カウンターのかたわらにはオシャレ棚がつったっていた。棚には女性向けの本や雑誌が乱雑に積みかさねられていた。なんとなれば、其処は世田谷のオシャレダイニングだったのだ。私は棚から一冊の本を抜き出した。
本の表紙には『間取りの手帳』とあった。
「この本、おもしろいんですよ。いろいろ、変な間取りの家が載っているの」
私から本を受け取り、 姐さんはぱらぱらとめくった。
「え、なに? これ、どうなってるの?」
開かれたページを覗きこみ、
「ふたつの部屋がここでつながってるんじゃないかな」
「あはは、本当だ。おもしろい」
けたけたと姐さんは笑った。
カウンターの向こう側でバーテンダーがウインクした。
上着は椅子の背にかけておきなさい
母は言った。
「上着は椅子の背にかけておきなさい。いつでも亡命できるように」
母はいつでも正しかった。
亡命という言葉は、どこか手垢にまみれてしまっている。アカに汚されちまったと言うべきかもしれない。どこか寒々しく、どこか陰鬱な雰囲気をまとっている。おそらく岡田嘉子のせいだろう。
どうせ亡命するんなら、暖かい南の国に行きてえな、なんて私は考えちまう。それが不謹慎な考えだと誰に言えるだろう(言ったところで聴く耳なんて持ったげないけどね)。
ある種のリスク回避の手段として、(亡命とまでは言わないまでも)海外への移住は常に考えておくべきだろう。なに語学が苦手だってかまいやしねえ。人間、そんなものにはすぐなれるさ。